『東日本大震災』から今年で10年。
復興事業に現場で携わる村本建設の谷次さんにお話を伺いました。いつものちょべたより、少し真面目な記事。
震災から東北支店配属まで
ー 震災当時は何を?
私は当時大学生で、3回生への進級を控える時に震災が起こりました。関西に住んでいて離れていたので、直接揺れを感じるということはありませんでしたね。ただ人から聞いたり、テレビで被害を目の当たりにしたときに大変な状況であることを理解しました。
ー その後配属に至るまでの経緯は?
震災直後からツイッターなどで状況を追っていて、その後実際にボランティアとして現地に足を運ぶ機会がありました。そこで被害の状況を改めて目の当たりにして、「復興に携わる仕事がしたい」と思いました。入社後、自ら東北への配属願いを出しました。
復興のために「新しい道路」を造る
ー お仕事の内容は?

仕事内容は土木工事の施工管理です。建設業は危険と隣り合わせの仕事なので、安全に仕事が進められるように計画を立てる仕事などをしています。構造物など、「より良いものを造れるように」ということで品質や出来映えを管理しながら作業を進めます。
ー 具体的にどのような事業内容か?
私は現在岩手県の普代村という場所で山岳トンネルを造る事業に携わっています。大きくは宮城県仙台〜青森県八戸市の全長359㎞の、復興道路と呼ばれる三陸沿岸道路の事業の一部です。復興事業といっても、私が携わっているのは「壊れてしまったものを復旧する」というものではないです。沿岸部と内陸部のパイプを強化して、早期の復興を図るもの。そういう意味では「新しい道路」を造る仕事です。
ー 質より早さ?
三陸沿岸道路は全線359㎞を震災から10年目の今年中に開通させるという目標があり、スピードは大事です。しかし同様に品質も大事です。防潮堤がより高く造られるのと同じように、強度を上げる工夫は為されています。
ー 復興の状況の変化は?

▲谷次さん・村本建設が携わる国道45号堀内地区 道路工事の様子
配属当初は津波で壊れた防潮堤の復旧など、「リアル」な工事をしているという印象がありました。配属された時点で自分の現場ではがれき等はありませんでした。しかし岩手県の宮古より少し南下した所だと津波の被害がそのまま残っているような場所もありました。また当時は三陸沿岸道路の建設は盛んな時期でした。各所で復興工事が行なわれていて、いろいろな道で、土を輸送するダンプ等が往来していました。現在はいろいろな工事も減ってきて、自分の携わっている工事の方も終わりが見えてきました。359㎞の道路も今は300㎞が開通していて、年内には全線開通予定です。
「土木」という仕事
ー どうして「土木」の業界へ?
もともと大学では理工学部の都市システム工学というのを専攻していました。授業の中で山岳トンネルの工事などについての授業があり、土木工事や建設全体のスケールの大きさに惹かれて、この業界に入りたいというのがありました。
ー お仕事の大変な点は?
まず、1つの工事の始まりから終わりまで多くの人間、協力会社が関わるので、その連絡調整は大変ですね。それと、外での作業となるので天候に左右されることが多いです。東北は雪が降るので雪によって作業が中断することもあります。工事は期限が決まっています。遅れることはできません。やはり終盤は残業も多くなって、そういった点は大変です。
ー お仕事の魅力は?
現在は土木の仕事を始めて8年目です。道路とトンネル工事の仕事をメインでやっています。人々が普段使う、ライフラインにも直結するようなものを造るという点で、社会貢献度が高い仕事だなと思います。また、現場で日々出来上がっていく様子を見て、最後の完成までその場にいることができるので達成感や感動があります。
「風化」について
ー 「風化」を感じることは?
東北の現場にいると、震災のことを思う瞬間は多々あります。毎年3月11日に皆で海に向かって手を合わせるなどの行事もあります。しかし関西に帰ると震災の話はもうあまり出ません。そういった点では「風化」を感じることはありますね。3月11日に近くなると増えてくるテレビの特番を見てもらうなどしてもらえればと思う。今生まれてくる震災を知らない子供達に「こういうことがあったんだよ」ということを伝承していく必要はやはりあると思います。
編集後記
「東日本大震災から10年。」
3月11日が近づくにつれ、幾度もこの言葉を耳にしました。
震災当時、僕は小学生でした。テレビで流れている映像は凄惨を極めており、隣で祖母が泣きながらテレビに見入っていたことを今でも覚えています。
この10年間が持つ意味は様々だと思います。ある意味では復興が進み、被災地に徐々に人々が戻って、傷が癒えてきた10年間です。また違う意味では、未だ見つからない行方不明者の問題や、故郷へ帰れぬ避難者の問題など、人々の目に映りにくい複雑な形の傷が残されたままになっている10年間だと思います。
時が経ち震災が風化してしまって、震災の恐ろしさや、復興の営みや、未だに解決していない問題のことが忘れられてしまうのは、あまりに惜しく哀しいことではないでしょうか。この10年という節目に、読者の皆さんが少しでも震災や、震災のその後に思いを馳せるきっかけにこの記事がなってくれればうれしいです。
またこの記事で建設・土木と社会の関わり方も少しは見えたのではないでしょうか。
最後に、東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。また、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
Chot★Better代表
京都大学文学部2回生 平山周吾